これは東北地方のとある料亭の話。この料亭の料理人である海老沼さん(仮名)の、料亭を開くまでの激動の日々を綴ったものだ。この話には、金融に進む人には絶対に知ってほしい、大切なコトが詰まっている。一人の男の挑戦から金融の本質を紐解く。
小さな街の奇跡の料亭
「へい、らっしゃい!」イキのいい店主の声が飛ぶ。
仙台から電車で1時間ほどの小さな町。この町に行くには電車がまだ震災から復旧しておらず、大きく迂回していかなければいけない。仙台とこの町をつなぐ直通のバスはいつも混み合っている。
小さな街である。駅を出ると商店街は10件に1件だけ開いていて、その他はすべてシャッターが下りている。夕方の18時を過ぎると大きなショッピングセンターも閉まってしまい、人通りもまばらで澄んだ空気をいっそう冷たく感じさせる。
シャッターを下から上に向かって眺めていくと、自分の身長を大きく超えた上の方に、何やら線が入っていて、そこから上と下ではシャッターの色が違う。上の方が綺麗な色で、下の方は少し濁った色をしている。
薄暗い商店街を10分ほど歩き、川を渡る前の道を右に曲がるとその店は見えてくる。ほとんどの商店に明かりがないものの、その店には煌々と暖かな光が付いている。
元々は化粧品の販売店だろうか。料亭の割には全面ガラス張りでなかが全て見渡せる珍しい造りをしている。
中は人に溢れ、いつ来ても満席である。
足を踏み入れると女将の「いらっしゃい〜」という柔らかな声とともに、店主が包丁を捌きながらちらっとこっちを見てくる。
少し遅れて「へい、らっしゃい!」という声が飛ぶ。
20名ほどが入るお店。ほとんどの客が常連で、席は全て埋まっている。
開店以来、ずっとお客さんで埋まり続けており、1か月先でも予約が取りづらいほどである。
この料亭を創る時は、誰も信じてくれなかった。
ただ、お世話になったこの街のみんなに、自分に居場所を創ってくれてたこと、自分を生かしてくれたことの恩返しをしたいだけだった。
このお店は、店主である海老沼さんの全て、そしてそれを支える何十何百もの仲間の強い意志が生み出した、小さな街の小さな奇跡である。
運命の出会い
東京にほど近い、どこにでもある住宅街に生まれ育った。2人兄弟の上、弟が一人いる。普通は弟がいると兄がしっかりするものだが、兄の方がやんちゃで勉強はできない、特に何もできることがない。
運動神経は少しよかったが、県大会に出たこともなければ何かで賞をもらったこともない。
でも、なぜか昔から周りに人が集まるような少年時代だった。
地元の高校から地元の大学へ。どこにでもあるような、ごくありふれた生活を送っていた。
つまらない日常を変えたくて、何気なく家の近くのファミレスでバイトをすることにした。
面接をしてくれたのは、ビシッと髪を決めた少し強面の店長。口数も少なく、あまり話も続かない。
「この人とうまくやれるかな?」と思ったが、今まであまり人間関係で苦労したこともなかったので、まぁ大丈夫か、と軽い気持ちでやることにした。
店長は、本当に何も喋らない人だったが、よく自分のことを見てくれる人だった。仕事はキッチンで料理を作る仕事だったが、お客さんのところに行って注文をとったり料理を運んだりする人たちやお皿をひたすら洗う人など、働いている人たちみんなと仲良くなった。おばあちゃん、主婦、フリーター、高校生など、いろいろな人が集まる場所だったが、みんなが仲良く、心地いい場所だった。
自然と、「自分の居場所はここなんだ」と思えるようになった。そんな自分の姿を店長も見てくれて重宝がってくれた。今まで、何かに秀でることがなかった自分にとって、こんなに居心地のいい場所はなかった。
料理は初めての経験だったが、自分の工夫次第でいくらでも出すものが変わる、という面白さがあった。少しの包丁の入れ方、火の通し方、塩の一振り。自分にしかできないことを表現出来る場所。自然と大学には行かなくなりバイトばかりやったおかげで、大学には7年も通うことになった。
2年ほどして、店長が少し離れた店舗へ異動になった。後任の店長は自分の仕事ぶりが気に食わなかったのか、事あるごとに対立をするようになる。初めて、人間関係でうまくいかない事が出てきた時に、いかに前の店長に救われていたかを実感した。
そうこうしているうちに自分の居場所であったはずのバイト先が居心地悪くなり、精神的にも追い込まれていった。
そんな自分を拾ってくれたのは、やはり前の店長だった。
スクーターで20分ほどのところに異動した前の店長が、次の店に誘ってくれたのだ。
店長への恩返しができるのであれば、と店長についていくことを決めた。新しい店は前の店よりもひと回り大きな店舗かつ、エリアの中で1番の稼ぎ頭。裏を返せば、最も忙しいお店。今までの自分で通用するのかは不安だったが、そんな不安はすぐに吹き飛んだ。いろんなクセのある人が多い店舗だったが、若いバイトも多い店ですぐにみんなが「アニキ」と慕ってくれた。
結局4年を過ごしたが、最高に居心地が良かった。
居心地が良すぎて、世界が狭まるのが怖かった。
だから、世界を見ようと思った。
店長に相談すると「寂しいけど行ってこい」と、一言だけ。
こういう人のことを恩人というのだろう。
バイトで貯めたお金を使って、世界40か国をふらふらと1年旅して回った。ヨーロッパから入り東欧、中央アジアから東南アジアへ。バックパック一つで歩く変な日本人。英語も話せないのにやたらにフレンドリーな青年。いろんな国に兄弟と呼び合える友人ができた。人とつながることは、狭い世界だけで通用していたのではない。世界のどこでも通用するパーソナリティだと自信を持つことができた。
自分に自信を持てた。では、どのように自分を表現しよう。
日本に戻って料理をしよう。「日本」を語れる日本料理を。
志
1年の海外放浪を経て、日本に戻ってまずやらないといけないことが二つあった。
店長に挨拶に行くことと、大学を卒業すること。
卒業まではお世話になった店長の元で働こうと決めていた。
大学の卒論は日本酒の勉強をしようと思い、いろいろな酒蔵を回って歩いた。世界を回る中で「日本」を語ることが多く、「日本ならではのもの」を勉強したかったし、将来料理をするのにも役立つと思ったからだ。
無事に大学は卒業。嬉しさや親に安心してもらえる嬉しさもあったが、それと同時に、慣れ親しんだバイトの仲間、そして店長との別れが待っている。あまりにいい時間を過ごしすぎたが、恩人には恩を返さなければならない。
「自分らしさ」を育んでくれた人に、「自分らしく生きている」ことを見てもらうこと。料理で自分を表現し続けること。料理人としては全くと言っていいほど素人な自分が、新しい人生の一歩を踏み出す。
卒業後、調理学校でまずは料理の基礎を学ぶ。しかし、教えてもらうのは得意じゃなかった。早く実践を積みながら自分の料理を作りたかった。
素人の自分を育ててくれたのは、栃木県のとある料亭。自然豊かな場所で、恵まれた環境だった。
料理について素人だった自分に、いろはを教えてくれた思い出深い場所。最初は本当に洗い物、先輩料理人の下請け仕事ばかりだった。こんなことして何になるのだろう、、、自分らしさとは何だったのだろう、、、俺大学7年行ったからもう25歳だしな、、、ヘコむこともたくさんあったが、兄弟子が本当に自分のことを可愛がってくれたおかげで、何とか踏ん張ることができた。
やはり、人に恵まれるのだ。
魚のさばき方、臭みの取り方、素材への下味のつけ方、焼き方、煮方、盛り付け、すべてをここで学んだ。
ファミレスのバイトではもちろん生の魚をさばくことはない。ソースなんかも工場で作られてきたものを提供するだけ。本当に生の食材から、一から全てを作り出す。自分の思い通りの味になればラッキーで、ほとんどの場合は失敗ばかり。こんな切り方をすると全然違った食感になる、とか、下味のつけ方で全く別物の料理になる、とか。
バイトの時ですら少し手を加えるだけで全然違うものを提供できていたのに、こんなに食材が無限にあって、調理方法が無限にあって、料理が強くなった。自分に何ができるのか。
もっといろんなことを学びたい、、、その一心で、3年勤めた料亭を離れることを決めた。
多くの技が集まる東京へ。銀座の料亭でひたすらに技術の習得に励んだ。できないことばかりで怒られ続けたが、自分が1秒毎に成長していくのがわかり、本当に楽しい日々だった。
また次の技術を求めて次の店に行こう。3か月後には3か店目が決まっていた。
そんな時に、その事件は起きた。
3.11
ガラガラガッシャーン!!!
夜の営業時間のために、厨房でひたすらにソースを煮込んでいる時だった。
いきなり調理器具が落ちた。なんだろう。すぐには何が起きたのかわからなかった。
「火を消すんだ!」
料理長の怒りを含んだような声が、厨房中に響き渡る。
慌ててソースの火を消したものの、まだ「なんで?せっかくのソースが勿体無い」くらいにしか考えられなかった。
ほどなくして、ようやく事態を飲み込むことができた。
立つことすら許してくれない、大きなうねりが襲ってきた。
(なんだこれ、ソース落ちるなよ!)
心の中でソースを心配するのが精一杯だった。
幸いなことに、大きな被害はなく、地震は止んだ。もちろんソースも無事だった。
(なんだよ、あぶねーな。地震なんかに俺の大事なソースがやられてたまるか。さ、もう一回仕切り直そう)
「さ、夜の営業まで時間ないぞ!頑張ろう!」
気合を入れ直したのもつかの間、また料理長の怒号が飛ぶ。
「馬鹿野郎!待機しろ!親御さん無事か連絡しろ!」
え?料理長何言ってんだ?今日の営業できなくなっちゃうぞ。。。まぁいいけど。。。
料理人たちの集まる部屋に引き上げて渋々携帯を取り出した。隣の部屋ではテレビがついている。
何やら、大きな地震で電車が止まっているらしい。
「震源地は宮城県沖。津波に注意してください!」
「・・・宮城県?てどこだっけ。ちゃんと社会を勉強しておけばよかった、、、とりあえず電話すっか。」
「ツーツー。。。あれ?かからないや。」
何度電話をしても繋がらない。
大きな地震だったし、しょうがないよね。みんな電話してんだろ。
厨房に戻ろ〜
大きな損傷はなかったものの、多少皿が割れて調理器具が床に転がっていた。勝手口を出てすぐのところにある箒を持ってきて、丁寧に割れ物を片付ける。落ちた器具は洗わないと。面倒なことしてくれるぜ、ホント。
片付けは1時間ほどかかった。厨房には誰もおらず自分一人。
みんなは?
テレビの部屋に全員、全く動くことなくじっとしていた。
「何やってんすか。料理人が厨房を空にしちゃダメでしょ」
今度は料理長の静かで低い声、怒りではない、戸惑い?を含んだ声だ。
「馬鹿野郎。それどころじゃねぇ。今日は閉店だ。誰か東北地方に家族のいるやつはいないか?すぐに連絡を取りなさい。店の電話を使ってもいい。早く!」
料理長、何をそんなに焦ってんだろうと思いながら、ふとテレビに目をやる。
「・・・・・・・・・・・・」
声を出せなかった。現実の出来事として認識ができなかった。
そこからはあまり覚えていない。
仕事場である料亭は銀座にある。そこから千葉県の実家まで6時間、歩いて帰った。両親は無事で安心した。
翌日は電車のダイヤは大幅に乱れていたものの、何とか銀座まで出ることはできた。東京の電車って本当にすごいな。
しかし、土曜日の銀座なのに全く人気がない。こんなにガランとした銀座を見るのは初めてだった。映画の撮影しているみたい。
もちろんその日も営業はできなかった。
テレビでは相変わらず地震のニュースばかり。津波が街を飲み込んでいく映像はもう見たくなかった。
数日すると、今度は福島の原発のニュースばかり。どうなっちゃうんだこの国は。
程なくして、また毎日のようにテレビから「ボランティアが足りません!」という声が聞こえてきた。
ボランティア。ふーん。やったことないや。
自分でも何か役に立てることがあるのだろうか。
無一文
気がついたら、ここに来ていた。
仙台からバスで2時間。普通に電車や道路が通っていれば1時間程度なのだろう。1週間ほど、ここでボランティアとして働いて、少しでも人の役に立ってから、就職が決まっている次の店に行こうと思っていた。
商店街を歩くと、ほとんどシャッターが開いている。
シャッターの上の方を見ると、同じような高さに線が入っている。
線の上は綺麗で、下は濁った色をしている。この高さまで、波がきたのか、、、
店の中は泥棒が入ったのか、おばけが出たのか、とにかくぐちゃぐちゃである。
片付け班として、とにかく建物から泥をかき出し、ゴミを捨てるだけの日々を過ごす。
どこまでやっても終わらない作業。不安そうな街の人々。
「おっちゃん、諦めんな!また店やろうよ!」と励まし続けた。弱気になっている人をずっと前を向かせ続けたら、ここでも年の離れた「兄弟」がたくさんできた。
そういえば、自分の特徴を忘れていた。
料理は自分を表現する場所だったはずなのに、料理をすること、料理でいろんなことを覚えるのが楽しくて、料理自体が目的になっていた。
自分は誰とでも兄弟になれる。兄弟のために料理を作っている。料理は手段であって、目的ではない。
今はこの泥かきが自分とこのおっちゃんを兄弟にしてくれる。
自然と単純な重労働が苦でなくなった。
その後、料理をしていた話を聞いた友人から店舗再生班に行って欲しいと頼まれた。
1週間で帰ろうと思っていたが、自分の店が生き返る人々を見るのが楽しくて、結局1年も居ついてしまった。
就職する予定だった料亭には断りを入れた。
貯金は底をついていた。
「人」
そんな中、出会った人がいた。
絵が上手だという年下の女の子は、この小さな街で生まれ育った子。
自分も大変だというのに、それでもこの街を救いたいと、本気で自分に何ができるか考えていた。健気な姿が太陽のようだった。
この子とも兄妹になる。
自分の再生した店舗のシャッターに、彼女が大きな絵を描くことで、店に魂を受け入れる準備ができる。あとは元どおりに人が戻るだけ。二人でたくさんのお店を再生してきた。
程なく、2人は一緒に暮らし始める。
暮らし始めたのは、知り合いが貸してくれた倉庫。お金がなさすぎて、無料で貸してもらっていたのだ。本来は人の住むとこではない。手入れもされていないし、地震もあったばかりで補強もしていない。
とある大雨の日だった。
夜帰ると、二人で次の日の絵は何を描こうかといつものように話をしていた。
ガラガラガッシャーン!!!
何が起きたのかわからなかった。
気づいた時には、自分も彼女もずぶ濡れだった。
どんな感情を抱けばいいのかもわからなかった。
情けなさ、悲しさ、やるせなさ、自分たちの無力さ、好きな人が隣にいてくれる幸せ、いろんな感情があったが、とりあえず二人で笑うしかなかった。
雨の重さで天井の抜けた倉庫の中に、笑顔が溢れていた。
彼女の頬を流れるのは、雨だったのだろうか。
もう一人、会いたくない人がいた。
乾さん(仮名)という、故郷の浜辺を再生させようとしている人のことは聞いていた。
アルバイトをしながらも1年間貯金もなく貧乏暮らし。年齢は30を超えていた。そろそろ帰らなければ。
乾さんに会ったら東京に帰れなくなる。そんな気がしていた。
何度か乾さんが知りあいづてに自分に会いたいと行ってきていたが、気が進まなかった。
ある日、家のドアを開けると、知らない男の人が立っていた。
乾さんというらしい。これから海へ行こうと言う。
その浜は不恰好に美しい場所だった。透き通った海の近くに豊かな山。豊富な川からの水は大量のプランクトンを生み、餌を求めて魚たちがキラキラと生きている姿が浮かぶ。
横を見れば、陸地に乗り上げたコンテナ、ひっくり返った車、原型がもはやわからなくなった家が並ぶ、そんな場所である。
乾さんはこの浜を再生させるのが夢だと、美しい眼で語る。
あぁ、誰にでも兄弟になれるのは自分だけではなかったのだな。
この人のこの眼を見てしまったら、ここから離れることなど、もはやできないのだ。
挫折
浜の再生を手伝うこと、この小さな街に生きること、腹をくくった。
そして、もう一つ、前からの夢であった、自分の料理出す店を出すこと。
敷かれたレールではない。1年前の自分にも想像できなかった道。でも、今の自分にはこれしかない、と思えた。
いろいろな人から話を聞くと、この街は食材という宝の山だった。
海の幸はもちろん、山の幸、そしてお米も豊かで料理を振る舞うには最高の場所だ。
ここで自分を表現し続けるんだ。兄弟たちのために腕を振るい続ける、そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
まずは店を出す場所。商店街の端っこの方に空いている店舗があった。料亭というには窓が大きすぎて、中が丸見えではあるが、贅沢は言っていられない。
内装をきれいに仕上げて厨房機器を入れるには少なく見積もっても2,000万。
とてもじゃないけど、自分でなんとかできる金額ではない。
どうしようか悩んで周りに相談したところ、誰も自分が料理をするなんて信じてくれなかった。
だから、地元の旨い魚を使って抜群の料理を作ってやった。
「海老沼さん、本当に料理できるの?めちゃくちゃ旨い!絶対成功するよ!」
料理を食べた人が人を呼び、あっという間に店をつくってくれる応援団が結成された。みんなボランティアで協力してくれる。
こんな、見ず知らずに三十路男のために。本当にありがとう。
みんなのおかげで、施工費は1,000万程度で済むことがわかった。
これくらいであれば銀行に相談してみよう。
今まで、銀行なんてATMしか使ったことない。
初めて事業計画を考え、融資の担当者に会った。
自分を試されている、自分の未来を評価されているよう。あまり将来を考えたことは今までなくて、常に「今」を生きてきた。
初めて「これから」のことを真剣に考えると、意外と難しい、、、
うまくいくだろうか。。。
銀行融資は時間がかかるのかと思っていたが案外に早く審査結果は出た。
「融資はできません」
なぜ、、、
「我々は、この道で5年以上の経験を持つ人をプロとみなします。海老沼さんは栃木と東京の店舗で累計4年ちょっとしか働いてませんね。これではプロとして認められません。」
「なぜ、この土地に関係のないあなたが、この小さな町でお店を出すのですか。素性のわからない、一文無しの『料理人見習い』のお兄さんには貸せるお金はありません」
「最近この街に、変な青年が増えてきた。この街で何かを始める、というと無利子で融資が受けられるとか、返済を免除される融資があると知り、何をするわけでもないのにお金だけせびりに来る。こんな輩が全国から集まっている。海老沼さん、あなたも一緒なんじゃないですか?」
悔しかった。何一つとして納得できることがなかった。
料理は確かに5年はやっていないが、栃木でも銀座でも厳しい修行を楽しみ、誰よりも早く料理のイロハを吸収してきた。一人でなんでもやれる自信はあった。
この1年、料理の仕事を捨て、この土地の人のために来る日も泥をかき出してきたのだ。素性のわからない?この街の人はみんな俺のことを知っている。みんな応援してくれている。金がないのも、この街のために稼ぐ時間をボランティアに捧げたからだ。
一番頭に来たのは、この街に集まる不遜な人間と一緒にされたことだ。
そんなに褒められた人間でないことはわかっているが、この1年、少しでもこの土地の人のために、と努力をしてきたことに対するプライドはある。
あんな奴らに負けてたまるか。
ここから戦いが始まった。
A銀行、B信用金庫、C銀行、政府系の金融機関など、いくつの金融機関を回っただろう。何回交渉に行ったのだろう。100回?200回?
無一文の自分にお金を貸してくれる銀行はなかった。
半年が経っても、誰も自分に見向いてくれなかった。
「もう待つだけ無駄だ。早く始めないと協力してくれるみんなに申し訳ない、、、」
そんな焦る気持ちもあり、お金はないけど店舗の建築だけ先にスタートさせることにした。「本気度の違いを見せてやる。」
何とか親や知り合いからお金を工面してもらい、一定程度まで工事を進めてもらうことができた。しかし、そこから先はまた銀行との戦いをしなくてはなない。
また、自分の過去、現在、未来、すべてを否定される場に行かなければならない。そう思うだけで吐きそうになる。
でも、進むしかない。こんなにも素敵な兄弟たちが自分に期待をしてくれているのだから。
唯一の財産
「一刻も早く、3か月以内にお店をオープンすることを前提に、融資します」。
交渉を続けていたC銀行から、突然の融資認可が下りた。
もちろん嬉しさはあったが、戸惑いの方が大きかった。なぜ突然、、、?
融資担当者になぜ今までは断り続けた融資を、今になってOKしたのか、と聞いてみたが、融資担当者は何も教えてくれなかった。
「そんなことより、早くお店を開いてください。融資実行するんですか?しないんですか?」
いるに決まっている!
これで店を開くことができる。みんなの店を創ることができる。
何てことだ。
自分の未来に期待をしてくれる人がいるんだ。
早く帰ってみんなに教えなきゃ!
そう思った瞬間、奥の支店長室から恰幅のいいおじさんが出てきた。
前に話をしたことがある。そう、C銀行のこの小さな街の支店長だ。
「海老沼さん、お時間がありましたら少し、お話ししませんか?」
支店長の部屋で、銀行に来て初めてお茶が出された。
ゆったりとしたソファに、ずしっと沈むように支店長が座った。
少し呼吸を置いて話し始めた。
「海老沼さん、この度、1,000万の資金を提供させていただく。しかし、忘れてはいけない。これは借りたお金であり、しっかりと返していかなければならない。お店をしっかり軌道に乗せてください。無駄遣いしないように。
お察しの通り、我々はあなたにお金を貸すことに非常に不安を持っている。
しかし、商店街の当行の重要なお客さまから、『海老沼にお金を貸さないならこの銀行との取引をやめる!』と何度も言われたので、仕方がなくお金を貸すんです。素性のわからないあなたにお金を貸すことは我々はものすごいリスクを取っている、ということを理解してください。そして、リスクを取った我々の覚悟にしっかり報いて、頑張って下さい」
二度と銀行から金など借りるものか!!絶対に成功して早く借金を返して見返してやる。最悪だ。絶対にこいつらを許さない。
融資の通った嬉しさなど、全く忘れていた。ただただ、悔しかった。
こんな金いらねぇ!ということもできない。自分の力のなさが恨めしい。
とぼとぼと店のある建物に帰ると、みんなが天井を作ってくれていた。
意気消沈している自分の姿を見てみんなが「またダメだったか?」と聞いてきた。
「融資、してくれるって」
「え〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
すごいじゃん!海老沼やったな!これで俺らの店ができるな!
一刻も早く店を完成させなきゃ!こっからだ。俺らはここからだ。
やるぞ!
みんなの姿がゆらゆら揺れていた。直視することができなかった。
そう、自分が踏みにじられることなど大したことではないのだ。これでみんなの思いを守れる。
自分のために銀行と戦ってくれた人がいる。
今はそのありがたさを噛み締めて、この店に集中しよう。
自分はこの人たちのために1年間、死に物狂いで頑張ってきた。貢献してきた。でも、自分はこの人たちに生かされているのだ。
居場所を作ってくれたみんなが、自分にとっての一番の財産だ。
金融の本質
急ピッチで開店までこぎつけた店は、常連客でいつも埋まっている。
幾つかのメディアで紹介され、1か月先でも予約が取りづらいほどの人気となっている。
遠くから住み込みで手伝いに来てくれる友達がいたり、この地で知り合って協力くれる人もいる。
この小さな街に、一から自分の店を手作りした。みんなで心を込めて築き上げた店は沢山の人から愛されている。
銀行員は嫌な奴らで、自分を否定し続けたあいつらを許すことはできない。
でも、自分の夢を実現するために、このお金がないとできなかったことはまぎれもない事実だ。
誰でもお金を借りれるわけではないのだろう。自分には兄弟がいた。そのおかげでお金を借りることができ、店を作ることができた。こんな幸運なことはそうはないのかもしれない。
自分の夢に向かって走る人を助けてくれることは間違いない。
店を開いてから少しして、大学時代にファミレスでバイトしていた時の後輩が遊びに来てくれた。
その後輩は、東京で銀行員になっていた。
これだけ伝えてあげた。
「お金を借りることって大変なんだぞ。そして、すごい大切なことなんだ。
俺は夢を実現しようと頑張っている。今この店があるのは、銀行が融資をしてくれたおかげだ。
本当に、俺がここで店を構えられたのは奇跡だよ。
銀行は奇跡を支える会社だな。俺は頭良くないけど、それくらいはわかった。
でも、俺は銀行員を絶対ゆるさねぇ。
嫌な銀行員にはなるなよ。」
プロローグ〜奇跡を支える権利〜
東北の小さな奇跡の料亭の話を見て、何を感じていただいただろうか。
銀行員は嫌な奴?
ここで、皆さんに感じていただきたいことは2つある。
一つ目は、この記事の主旨でもある「金融の本質」である。
海老沼さんの言葉にあったように、
金融の本質は「人の夢を実現する」ことにある。
これは銀行に限らず、広く「金融」というくくりに入る会社は平等に同じ本質を持つ。
例えば、「海賊と呼ばれた男」という本を読んだことがあるだろうか。この本の一シーンに、出光創業の国枝氏がイランから石油の輸入を試みる、というシーンがある。この取引は非常にリスクが高く、どの船会社も、仕事を引き受けてくれない。船に何かあったらどうしてくれるんだ、と誰も取り合ってくれない。
あまりに大きな話すぎて、国枝氏も「船に何かあったら、うちが弁償します!」とも言えない。
そんな時に登場するのが東京海上日動火災、損害保険の雄である。
東京海上、通称マリンが「イランから石油を輸入する」という途方もないリスクだらけの案件に対して
「何かあったらうちが面倒を見る」と
保険をつけてくれたのだ。
マリンのおかげで国枝氏はイランからの石油輸入を実現することができた。
まさに金融に生きる人間の醍醐味ではないだろうか。
海老沼さんも、銀行員は嫌な奴だったが、融資があったおかげでお店を創ることができ、自分の夢を実現できたのである。
銀行も損害保険も、人の夢を実現することが仕事なのだ。
自分の夢を実現したい人、人の夢を支えたい人、いろいろなタイプの人がいるだろうが、金融は「人の夢を支えたい人」のための会社だと思う。
銀行、金融の会社に入社するということは
「人の夢を実現させる、という奇跡を支える権利を手にする」ということだ。
大きい小さいに関係なく、奇跡は世界中に溢れている。
そんな奇跡をすぐ横でさせることができる。
こんなにも幸せな仕事はないだろう。
2つ目は、最近就活ワードでよく見る、「銀行オワコン説」へのアンチテーゼである。
昨今のAIブームで銀行の仕事はAIに取って代わる、とよく言われている。
あなたは、目の間に無一文で、どこから来たかわからなくて、料理の経験も十分な年数の経っていない、不審な青年にお金を貸すことができるだろうか?
普通なら誰もできない。
なぜできないのか。
小さい頃から、「よくわからない人を信じてはいけない」と教え込まれてきているからだ。
AIも同じである。AIは過去のビッグデータから様々な学びを得て判断をしていく。つまり、過去起きたことのないことは判断ができない。
この青年が将来起こすであろう奇跡を、AIは理解できるわけがない。
一緒に店舗を作っている仲間ですら、この店が繁盛するかどうかなんてわからない。
そう、未来を見ることは誰もできないのだ。
だから、信じることでしか奇跡は起きない。信じる、ということは目の前の人間に共感をし、深くコミットをすることだ。
海老沼さんが対峙した銀行員は、残念ながら信じることはしてくれなかった。
私は同じ銀行員としてよく理解できるし、情けないとも思う。
もちろんお金を貸すことは簡単なことではない。未来は見えない。
「信じる」という直感的な感覚だけではお金を貸すことはできない。これが理解できる部分。
情けない、と思うことは「自分の大切なお客さんが応援している青年」を本質的に理解し、覚悟をもって向き合う、というプロセスが抜けていることだ。
一度この青年を呼んで、3時間でも4時間でも、納得するまで青年のことを根掘り葉掘り聞いたらいいのに、それをしなかった。
お金を貸す、貸さないの判断は他人からとやかく言われてやるものではない。最後は自分が目の前の人を信じることができるかどうか、だ。
海老沼さんは人に生かされ、兄弟のために生きる人だ。
この人が人を裏切ることは絶対にない、昔からの付き合いの人にはよくわかっていること。この銀行員もしっかり時間をかけて海老沼さんを理解するべきだった。
そうすれば、海老沼さんも銀行員を嫌いになることはなかったであろう。
どんな小さな会社であれ、どんな大企業であれ、そこには関わる人の強い思いがある。ストーリーがある。そのストーリーに惚れ、目の前の人のために何か役に立てることはないか、と思いを馳せ行動する。
これこそが銀行員の醍醐味である。
理解頂けたと思うが、AIにこんなことはできない。
今のAIは「人に思いを馳せること」ができないからだ。
AIは過去のデータから、
「身元がよく分からない=お金を貸しても逃げる可能性がある」
「貯金がない=計画性がない」
「どこから来たかわからない青年=補助金目当て」
という判断をし、融資はしないだろう。
海老沼さんという人間がどのような人間なのか、どんなことを考えて過ごしてきた人なのか。昔から海老沼さんを知っている人は彼のパーソナリティを理解し、困った時に助けてくれる兄弟がたくさんいることも知っている。
海老沼さんの人となりがわかれば融資はできる。
しかし、海老沼さんが生きていた道を知ること、何を考え、どんなことを大切にする人であって、何を守りたいのか、などは世の中のどこにも情報がない。
銀行員として必要な、「人」に対する深い考察はインターネットを検索しても何も見つからないのだ。
データの収集ができないAIは役に立たない。
そして、「人」に関する本当に大切な情報はインターネット上のどこにもない。
だからこそ、「本当の」銀行員というのは、生身の人間にしかできない仕事なのである。
世の中には銀行を蔑む、ディスる記事も多い。
ほとんどの場合、銀行をディスる人は銀行で活躍できなかった人であり、銀行の本質的な仕事ができなかった人である。
こんなにも素敵な仕事を1回でも味わってしまうと、簡単にディスることなどできない。
本質を知っている人間は、むしろ銀行の可能性を感じているところだろう。
世の中にまことしやかに言われている情報を鵜呑みにしてはいけない。
こと、銀行、金融に進む人間は、できる限りの情報を集め、自分なりの考察をし、自分で判断をし、覚悟をもって物事を進めてほしい。
さて、いかがだっただろうか。
物語のようなものを書くのは筆者も初めての経験のため、読みづらいところがあったりうまく伝わらないことがあれば、ご容赦願いたい。
この記事が、将来の道を考える若い世代に、少しでも役に立つものであってほしいと願っている。